私達の行く先は天ではなかった。
第壱話 別火光の場合④
病院が見えてくると、ストべはいつの間にか姿を消していた。あんなに大声なのに気付かぬうちにいなくなれるというのはそれもまた妖精の力なのではないかと考える。
受付を済ませ、わたしは努めて軽い足取りで寿希の病室へと向かう。
そして第一声は明るく。わたしは病室の戸を開いた。
「ただいま寿希!元気にしてたか?」
「お姉ちゃんうるさい、あと病人に元気かとか聞くの不謹慎だよ。でもおかえり、今日はいいものあるよ」
ちょっとだけ反抗期に入ってきたようなこいつが寿希。もうちびっこじゃないのに未だにお姉ちゃん呼びをしてくれているのは嬉しいことだ。
「ふふ、悪い悪い、反省する。でもまあわたしがいずれなんとかするから安心してろよな信じてろって。……って、いいもの?何だそれ」
「……嵯峨谷さんがくれたプリンだよ。しかも良いやつ!
恐らく、“お父さん関連”でやらかしちゃったから何かあったら擁護しとけってことなんだろうね」
ははぁなるほど。社畜も大変だな。
ちなみに嵯峨谷さんというのはここ志名利病院の看護師で、父さん-院長間の癒着を都合よく見てみぬふりをしながら時々嫌な仕事を押し付けられと、何かと大変そうな人である。
「嵯峨谷さんにお礼言いに行きたいんだけどどこ行ったか知らないか?」
「んー、あともう少ししたら食事運びに来ると思うけど……僕がお姉ちゃんの分も言っておいたから大丈夫だと思うけどな」
「オッケー、わかった。でもお礼はしとかなきゃな」
わたしは寿希の雑談相手になるついでに勉強をしに来たのだが、プリンには逆らえない。
プリンを食べながら寿希の好きなバンドの話を聞いていると嵯峨谷さんが食事運搬用のワゴンを押しながらするりとやってきた。
「おっ、光ちゃん来てたのね! プリンも食べてくれてるし!
どう?美味しい? あーううん、言わなくてもわかるわかる、それめっちゃ美味しいよね!私それ大好きなの!」
するりとやってきた割によく口が回る嵯峨谷さん。もしかしたら本当にプリンが好きなだけなのではないだろうか。
「あっ、あー、美味いなこれ!いやほんとにありがとう!寿希も美味しいって言ってたしな!」
気圧されながらもわたしは話を繋ぐ。
「あーいいのよいいの!私の気持ちとして受け取ってね!」
「そういえば、これってどこのなんだ? また食べたいし今度買ってこようかな」
「これねぇ、なんだっけ……忘れちゃった! 今度教えてあげるね~
はい寿希くんのはこれ! 病院食簡素でごめんね~」
「ええ……これかぁ……。プリン、美味しかったんだけどなぁ……ねぇ嵯峨谷さん?」
「そんなかわいい顔したってそんなにお金あるわけじゃないよぉ~……でも、これもまた今度ね?」
「あ、もう十九時半過ぎちゃってるよお姉ちゃん!」
「マジで……? わ、ホントだ、そろそろ帰らないと……」
寿希に言われて気付くと面会時間はとっくに過ぎていた。
会話とおやつに思いの外気を持って行かれていたようで、勉強すらもあまり進んでいない。
「じゃあな、明日また来るよ寿希」
「うん……お姉ちゃん、またね」
急いで荷物をまとめ、背中を向けたまま寿希に手を振る。家に帰ったって別に勉強以外に何もやることはないが、それでも時間は守るに越したことはない。
走りながら受付の人に頭を下げ、わたしは病院を後にした。
いつの間にか潰れた苺がサドル部分に張り付いている自転車で、わたしは軽い山道を下っていく。春と言えどまだ冷えるこの季節は日が落ちると途端に寒さを増す。
「流石に寒いな…」
黒の長袖セーラー服1枚では風邪を引きそうな寒さだ。だからと言ってまだ防寒具なんかつけていたら笑いものだが。
苺の妖精をもう一度呼ぶことも考えたが、ノースリーブのあの妖精は見ているだけで寒くなるので没。というより、わたしの自転車を汚してくるほどに怒っている相手なんかを呼んでもしばらくのところは来ることはないだろう。
不意にわたしは自転車を漕ぎながら物思いに耽る。
ああ、明日も同じ一日を過ごすのだろうな。
わたしが寿希を助けるための答えが見つかるまではずっとこの生活が続くのだろうな。この現状に満足しているだけでは足りないのだろうな。
きっと、わたし自身が満たされないのだろうな、と。
満開も満開の桜並木を眺めながらわたしは自嘲するようにフ、と笑った。
別火光の場合④
2023/02/16 up